「わからない」の、その先にあるもの。

06.セドナ2019

セドナというところ、何があるのか、全然わからなかったんです。
ガイドブックを読んでみたり、旅行サイトやブログなどを見てみたりしたけれども、どれを見ても「岩山」しかないよねぇ~。登るの?

って感じです。
それが「ボルテックス」というエネルギー渦巻くところらしいんですが、そんなこと言われたってイメージが湧きません。

え?湧きます?
「きゃー、ボルテックス!感じてみたい!
岩山?めっちゃ行きた~い!」
とかなります?

私は、ならなかったよね~。
登山ならまだ想像できるんだけど、どうやら登れないらしいし、頭んなか何個もの「?」が、高速でひゅんひゅん飛び交ってました。
(※自己責任なので登ることを禁止してはいませんが、レスキューされる方が多いそうです)

でもね、考えるの止めたの。
何かをしよう!とか、目的!とか、意図!とかとか止めたのよ。

「いいじゃん、わからなくたって。」
ある種の逆切れのように、どこかで諦めた。
最悪、何もしないでボーっとしてるだけだよ、ゆっくりしに行こう。
これもね、今回のテーマのひとつ。わからなくたって大丈夫(前回のブログ)の中の一部でした。

行く前は、みんな何しに行くんだろう?と思ったけど、実際ホントに山見ながら歩いてるだけだったよね。うん、登山とは言わない、軽くトレッキングしてる感じで毎日1万5千歩くらい歩いてたの。ある意味、瞑想的な日々ではあるのかも。

そして、ポイントポイントで、必要なワークをしたり、寝転がったり、瞑想したり。

いやー、清々しいほど本当にセドナ「岩山」しかありませんでした!
もう少し範囲を広げても「岩山と川」。
でもそれは、「見える世界」のお話。

「見えない世界」に体験の範囲を拡げると、俄然、豊かになってくる。
どうやら私にとってセドナは、インナーワーク(内観や内的観察により、潜在意識のクリアリングや書き換えを行ったりする)を行う場所のようでした。

その場所その場所で、感情が癒されたり、失った過去が蘇ったり、はたまた現在の繋がりを実感することで、安心を得られたりもしました。

そして、そのひとつひとつのインナーワークの作業は、失われていた自分の欠片を取り戻したり、知ることもなかったルーツを思い出したりすることにも繋がっていき、自分でもそれと意図しない間に、自分という存在の統合が進んでいく、ということが起きていたのです。

実際の体験、ひとつひとつは些細なもの。
樹々の間を抜ける風に「汐」の香りを感じたり。水の渦巻くイメージが湧いてくるような場所があったり。

それは、普通にしていたら「カン違い」や「気のせい」としてスルーしてしまうようなただの「感じ」。でも、それらの「感じ」を丹念に拾っては、自分に落とし込んでいきます。
そう、カン違いや気のせいを、いま自分に起こっていることとして、ちゃんと認めてあげるのです。

そうすると、身体の感性があがるんです。
いままで、聞いてもらえてなかった感性の声が、聞き入れてもらえることに気がつくと、喜んで、たくさん教えてくれるようになるのかなぁ。これもひとつの統合です。

祈りのような声が聞こえる場所や、眩暈がするようなところもありました。
例えば、そんな場所のひとつは、こんなところです。
そこに生えている樹木は、ぐにゃんぐにゃんとねじれてたりしてるのです。
ボルテックスからのエネルギーの影響と言われています。

虹が二本写ってる。こういう場所は、とても気持ちがよくて、私は楽しくて、持って行ったクリスタルの音叉を、キーン、キーンと鳴らしながら歩いていた。

音叉の音は、場所によってエコーが掛かったり、ふわんと揺れたりして、大地や樹々と会話しているみたい。

きっと太古から人は、こんな風に樹々と会話したり、風と会話したりして、自然から様々な知恵を受け取っていたのだろうな。
音叉を鳴らし、音と共にくるくると回ると、涙が流れてきた。

「わからない」の先には、大きな安心感と、懐かしさがあった。

「きっと大昔に、こんなことをやっていたんだろうね。」と呟くと、ネズの木が頷くように、大きく揺れた。

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