感情とビリーフを手放したときに起きること

こころのこと

「時間つぶし」それは、母と会える時間までの時間つぶしだったのです。
早く会いたいという気持ちを紛らわすため、寂しいという気持ちを感じないため。

時間つぶしはなんのために?

前回の記事で、寂しいのを感じないために何かしらものを作っていた、という話を書いたのですが、それを読んだ夫さんが
「それで、寂しかったというのは分かったけど、寂しかったのがわかると、それでどうなるの?何か、さえちゃんの生活は変わるの?」
と聞いてきた。

そうかも、わからないかもしれない、解説しますね。

封印された感情が出てきた

まずね、今回出てきた「寂しい」。
これ、封印した感情なんです。

この感情が発生しているのは、幼いころ。でも、その幼いころに感じるには、つらすぎて、感じるのをやめてしまったのです。

感じるのを中断してしまうと、行き場のなくなった感情は、潜在意識の奥底へしまいこまれてしまいます(比喩です。ここは筋肉、骨、いろいろな説がありますので割愛。)

幼いころにはまだ、そのネガティブ感情を適切に処理することが出来ません。そのため、とりあえずその場は、なかったコトに!してしまう、ということがままあります

(大人になったからと言って、私たちが適切にその感情を処理できているかといえば甚だ疑問ですが、感情は、ただ感じていればそのまま流れていきます )。

しかし一見なかったことにしたネガティブ感情、実はそれは、押し入れに生ごみをしまっておくようなものなのです。あとから腐敗します。

腐敗してくると、そのネガティブ感情は、出してほしいと水面下で暴れるようになります。

同じ失敗パターンが繰り返されたり、同じタイプの嫌な人が繰り返し(職場を変えても、引っ越しても)現れるようになったり、自己嫌悪・自己否定から抜け出せなくなったりしてきたら要注意。
それは、腐敗したネガティブ感情の香りやもしれませぬよ。

そして、今回出てきた私の「寂しい」という感情は、私にはおなじみの感情といえるものでした。長いことその感情があることを存在を知ってたし、寂しい幼少期を過ごした(らしい)。というのも知ってました。

しかし「寂しい幼少期を過ごした。」と概念として、思考としてとらえていることと、寂しさの感情を感じる。というのは全く別のことなのです。
今回、身体で、自分事として「寂しい」という感情を感じられたことで、ようやく心の奥底の押し入れにしまい込まれていた「寂しい」を出してあげることができました。

この、寂しい感情を出すことが出来た、というのは、インナーチャイルド的な解釈をすると、その感情を封印した幼い日の自分と再び出会い、繋がりなおすことができたと捉えることができます。

また、エネルギー的に解釈すると、その滞っていたネガティブな感情エネルギーを自分の身体から放出できたことでもあります。
「癒し」「感情開放」「インナーチャイルドのケア」など呼ばれることもありますね。

なので、最初のなにか私の生活が変わるのか?という問い対しての答えは、封じていた感情を出してあげることが出来たなら、今までより自然になれます。というのが答えになります。

せき止めていたものや、滞っていたものがなくなるので、今までより自然に流れ、自然に動けるようになります。
それは、無駄な力が入らずに済むということであったり、変な方向へ頑張らなくてもよくなる、つまり「自然に楽になる」こと、と私は解釈しています。

自己定義ビリーフが発見された!

そして今回「寂しい、寂しかった。」という感情が出てきたことで、私は自分に対して「私は寂しい人だね。そうなんだね。」という自己認識を繰り返していたことがわかりました(いやー、かれこれ40年ほどですよ)。

自己認識つまり、自分をどういう存在だととらえているかという考えです。

これを繰り返し認識しなおすことで、自分に刷り込んでいったり、決定的な理由や真実であると確定してしまうと「自己定義」という自分を構成する枠組みとなります。これは、良くも悪くもその人を縛る呪縛です。

私は 「私は寂しい人。」 という自己定義が、あまりにも当たり前すぎて、いままでそれを疑ったこともありませんでしたし、例えそれを誰かに指摘されたとしても、当然なので傷ついたと感じることもなかったと思います。
それゆえ私は、「私は寂しい人。」という自己定義で困った経験がありません。

寂しくないように頑張るとか、寂しいと感じてはいけないと思ったこともないのです。そのくらい自然にそこにあり、当たり前のこととしてそれを受容していました。

寂しい人として振舞っていた

でも今回「私は寂しい人。」という自己定義に気が付いたことにより、その定義らしく、寂しい人っぽく、寂しい人のように生きてきていた!ということが分かってしまったのです。

「私は寂しい人。」という定義を自分で設定し、それをルールとして自分の行動や振る舞いを決めていたのです。あんた、寂しい人なんだから寂しくしとかなきゃだめだよー!仲間とわいわいなんてダメ、モテて浮かれてもダメ、って言ってきたんです。

例を挙げると、
・(寂しい人だから)大人数で行動するのは苦手。
・(寂しい人だから)華やかな場や、にぎやかな場はふさわしくない。
・(寂しい人だから)人の気持ちがわからない、触れ合えない。

今まで単純に、苦手だったり、居心地がよくないと感じたり、そういうのは、自分の性質・性格的な指向だろうと思っていましたが、文の前の(寂しい人だから)というのを外して考えてみると、別に私、そんなことないなぁ、という感じなのです。

そして、
・(寂しい人だから)与えてもらえない。
・(寂しい人だから)ずっと満たされない。
・(寂しい人だから)甘えさせてもらえない。

こんな傷つきパターンがあることも、同時発見してしまったのです。
いかにも自分が寂しい人として定義づけた感情のパターンの反応で生きていたかということに気が付いてしまいました。うええ、これはひどい。私かわいそう。

若いころ、付き合う人が絶えなかったのも、人混みが苦手なのに週末は必ず出かけているのも、この寂しい人定義があったからなんだな、と理解できます。

そして、(寂しい人だから)というかっこ書きに気が付いたら、その定義は外せるということなんです。

・自分に与えてみよう。
・満たされてみよう。
・甘えさせてもらおう。

「私は寂しい人」っていう自己定義があると
「寂しい人」っていうキャラで人生劇場に出演しているってことなんです。

つまり、私のキャラ設定は「寂しい中年女性」です。
地味な服を着て、幸薄そうな面影、背景にうっすらと流れているメロディはマイナーコードです。いや、勘弁して。

キャラ設定に気づけば変えられる

いやっ!!そんなのいやだっ!!
音楽METALLICAに変えてください!!

もう「寂しい人」っていうキャラをやる必要なくなったんです(最初から必要はないのだけれど、やる理由があったってこと)。
ちょっと曲変えて!衣装もこれじゃいやだ!って、言っていいわけです。

でも、そのためには自分がどういった自己定義をしているかという認識は必要なんですね。私のように、まったく自覚しないまま深く刷り込まれている自己定義もあります。

今回は、母へのハンカチがフックとなって、思わぬ深みからコアビリーフが出てきてしまった感じはありますが、これから愛されて生きていいんだよ、大丈夫なんだよ。何かが教えてくれたのかもしれません。

最初の質問に戻ると、私の生活で何か変わるとしたならば、寂しい人という設定で行動や振る舞いを選択しなくなります。

また、なにか気が付いたらお知らせしますね、ではでは。

コメント

  1. […] これもまた「寂しい人」の自己定義が外れたから(記事はこちら)なのかもしれないけれど、こんなにも自分につながってくれている方がいるんだなー。と、改めて感じたり。 […]

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