「裏切り」という言葉の持つ違和感

03.自己定義とビリーフ

「裏切り」という言葉は不思議です。
wikipediaには、

約束や同盟関係を捨て相手に寝返る等の行為や、契約とは違った、もしくは期待はずれな事象に対し用いられる言葉。

裏切り

とあります。
例えば、戦争や契約に関して、同盟関係や契約を破棄し、寝返ったとするなら、約束が違う、として使われる言葉ですし、婚姻や相続などの話でも、同じ意味で用いられる言葉なのではないかと思います。

そんな固い言葉なのに「裏切り」という言葉が会話で用いられると、感情的なインパクトを感じます。強い憎悪が、裏側にあることを感じるのです。

固い単語としても用いられる「裏切り」という言葉に、とても強い感情が張り付いている。そこに私は、不思議だなーというか、興味深いなと思うのです。長い歴史が紐付いているからなのですかね。

普段の人間関係のお話で「裏切り」という言葉が出てきたら、それは「契約違反」という意味で使われることは少なく、「期待はずれ」の意味の方が強いようです。

・悪いのは相手の方
・私は被害を受けた
・私は間違っていない
という思い。

そして、その奥には
・傷ついた
・ひどいことをされた
・悲しい
・やるせない
・がっかりさせられた
といった、焼け付くような痛みがあります。

「裏切り」の裏に感じるものは「痛み」です。
「期待はずれ」という言葉には「落胆」がありますが、痛みがありません。
がっかりはしたけれど、痛手では無いという感じです。

あの人が忘れられない」でも書きましたが、その時点から何年経っても、思い出すと憎しみや痛みがぶり返す、という方もいらっしゃるかもしれません。

忘れられないのは、その「痛み」がまだ生傷だからです。
忘れていくためには、その痛みを見てあげることが必要です。

具体的にいうと、
・自分が何を期待していたか(どうして欲しいと思っていたか、こうしてくれるべきと思っていたか、など)
・その期待に答えてもらえなくて、自分はどう感じているのか
ということを言語化していきます。

このプロセスは実は、自分が他人に押し付けていた価値観(ビリーフ)を洗い出す作業です。
押し付けていたなどと言われるのは心外かもしれませんが、人間関係は変わるもの、人の感情も変わるものです。契約で縛ることなどできません。
そこに「裏切り」という固い言葉が使われる、ということに不思議な印象を受けるのです。

「裏切り」という言葉には、善悪という対立する概念が含まれます。
この言葉を使うと「裏切った悪」と「裏切られた善」が自然発生します。

「裏切られた」そう考えていると、自分は「善」の側でいることが出来ます。
相手を加害者にし、自分を被害者にしておくことで、関係性の悪化の責任を、すべて相手に転嫁することが出来るのです。

相手と話し合うことも出来たはず
関係性を断ち切る前に、自分の気持ちを伝えることもできたはず
被害者でいると、責任を負わずに済みますが、被害者でいる限り無力なままです。

「裏切られた」と被害者でいることを、この先も続けていくのか、そこから脱して自分の望む人間関係を作っていくのかは選ぶことができます。

「裏切られた」という傷を癒やし、ビリーフを手放していくと、力が戻ってきます。自分を被害者にしないということも、自分を尊重することのひとつです。

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