集合無意識を癒したのかもしれない話

セドナ2019

過去生かと思われる記憶が、蘇った経験が何度かある。
自分の感覚でしかないので、それが本当に過去生である!と断言はできないのだけど、体感を伴うとても生々しい体験だった。

そして、そのどれもが「痛み」や「衝撃」や「苦痛」など不快な記憶で、私の場合は特に殺された瞬間や、身体に痛みを負った瞬間が多かった。何度殺されてるのか。あー、殺している場面もあるわ。

似た経験をしている友人やクライアントさんに聞いてみると、同じような内容を聞くので、人って痛みや後悔や未練みたいな記憶を、肉体をなくしてもなお、残しているのかもしれない。

「聖なる十字架」という名を持つ教会、チャペル・オブ・ザ・ホーリークロスは、セドナの赤い岩山の中腹に建ったモダンな教会だった。

そう、モダンで美しくシンプル。静謐で穏やかな雰囲気がある。
箱本体が神聖なのではなく、箱に包括される空気に神聖さが宿るタイプの建築。
あ、それとも違うな。土地がなんといっても神聖さを湛えている。

私の父は建築士で、教会の設計にも携わっていて、だからか知らないけれど、教会という建物には居心地の良さを感じるし、神社とは違う祈りの温かみを感じる。

聖書を読み始めた頃は、眠る前に祈りを唱えていたこともあったし、なんなら米津玄師氏の「サンタマリア」を聴いていたら涙が止まらなくなる現象が一ヶ月ほど続いていた時期もあったけれど、信者かと聞かれたら圧倒的に仏教徒です、私。

しかしながら、教会で号泣。
一番前の椅子に腰かけると、ぐわーっと大きなエネルギーに包まれた。
乾燥しているお土地柄なのに、遠慮なく大粒の涙がこぼれ落ちる。

あー、これなんか前世関連?と斜め上から俯瞰している自分もいるのだけど、物理的にはしゃくりあげるほどの号泣。周りの方々ごめんなさい。
さすがに一緒に行った友人たちは丁寧に放置してくれて、慣れを感じる。

見上げた視線の先には、イエス・キリストが磔になっている痛々しい姿があった。
しかしその姿とは関係ない、別のところから言葉が降りてきた。

「イエスは、苦しまなかった。」
はっ!と打たれたように身体が激しく反応して、思わず声が出そうになる。
歓喜というのか安堵というのか、歓びに身体が震え、滝のように涙が流れる。

「だからもう、苦しまなくて良いのですよ。」
思考も感情も「???」の状態のまま、身体だけが感情エネルギーを解放していく。
終わるにしたがって、身体から沸き上がるように、ありがたい。という気持ちが沸いてきた。
イエスは苦しまなかった。その言葉に歓喜している何かがある。

……なんぞ、これ。
思考では何が起こっているのか、全くわからない。
強いエネルギーが身体を通り抜けていった。

「イエスは、苦しまなかった。」
と言われても、自分にはなんの感情も湧かない。

自分の関連のある過去的なものであれば、感情も気持ちもとてもリアルに感じる。でも今回のメッセージは、どうも他人事のようで、身体を貸しているだけのような感じだ。
どうも、私のクリアリングではない気がする。

帰国してから、あれは「集合無意識だったのではないか」と想像(根拠はないけど)している。集合無意識の中にある「イエス様が我々のために苦しんだ」という痛みを癒すために、あの出来事が起こったのではないか。という仮説を立ててみた(検証はできないけど)。

だとすると、あの言葉を降ろしてくれた存在が、何なのか。
とても気になるけど、私の今の力量では…無理。

私としては、あのチャペル・オブ・ ザ・ ホーリークロスの、場所が呼んだエネルギーだったように思う。とするとセドナという場所は、集合無意識が癒されている場所でもあるのかもしれない。

記念に、クロスのペンダントを買った。
世界人類が平和でありますように、の願いを込めて。

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