こんなタイトルで、新しいブログを始めました。
心理学を学び、カウンセリングを学んでいく過程で、私は少しづつ過去の鎧を脱いで、少しづつ自由になってきたけれど。
本当に核になる部分について、私を変えたきっかけになった出来事について、 私を導いてきた存在について、私は書くこと、話すことを避けてきていました。
何度か挑戦してみたことはあるのですが、それは自分の言葉でないような、空虚な絵空事であるような、陶酔しきった自己満足のような、そんなわけで、日の元へ出せぬまま葬りました。
それは「見えない世界」「見えない存在」についてのお話です。
見えないこと、触れないことの中にも、真実はある。
そんなことは分かっているのだけれど、どうもそれを言語化すると、シケたファンタジーにしかならず、リアルでない。
だって、このリアルさって、体感でしかないんだもんね。
説明するなんて無理なんだもん。でも説明したい。わかってほしいんだ!誰に。
ですので、このブログはいままで私が当たり前のように、吸っては吐く呼吸のように垂れ流してきた「言語」とは全く違うジャンルの「言語化」に挑戦しようという試みです。
たまにはお見苦しい箇所もあるかと思いますが、笑って読み流してください。
私は、生きている人よりは本の方が好きなタイプの子どもで、幼い頃から「弁が立つ」と言われ、口喧嘩では負け知らず。大人の矛盾にツッコんでは嫌な顔をされる小生意気なクソガキでして。
大人になってからも、20年に渡り穿った見方でブログを書き、セッションでも講座でも、言語に対してぶ厚い信頼を寄せ、時に心酔し、時に依存してきた私であります。「言葉」という毒にも薬にもなるものの、取り扱いに(割と)長けた方面の人間です。
それが、なぜこんなにも言語化を躊躇するのか、というと
それは私にとって「容易に口にすべきではない神聖なもの」であるからなのです。
それなのに、言葉にするとその「神聖なもの」の情報が、9割がた抜け落ちてしまう。
これはもう、言語の敗北です。
敗北ならば、敗北を認めたところから、誠心誠意言葉を紡ぐしかないわけです。
はい。
実は、(実はでもないな)
私が扱っている「こころ」「潜在意識」というものも、全然目には見えません。
でも、あたかも実在するかのように、あなたも感じていると思います。
深く深く潜っていくと、いつしか潜在意識のもっと奥なのかも…というところにいきあたったりします。それがどんなところなのかというと、ユング曰くの「集合無意識」みたいなものなのかもしれません。
お墓参りに行ったり、仏壇に手を合わせたり、しますよね。
でも、それまでの私は、それほど信心深い訳でもなく、私が父と母から生まれたのだから、父と母もそのまた父と母から生まれているんだろうなぁ、くらいの認識で。
私が初めて、そういうのあるわー!存在するわー!を体感したきっかけは、あるセッションでした(これ次に書くよ)。
そのセッションで、見たことの無い光景が見え、こころの奥深くが癒された体験によって、私は「家系の持つ信念体系」「ご先祖さま」「魂」のようなものを身体で理解したの。
おばあちゃんが助けてくれたなぁ。
ずっと、見守っててくれたんだなぁ。
と、あーそうだよね。ありがとう、って自然に手を合わせたい気持ちになった。
そして、3年前のあの日を境に
どんどん不思議なことに、導かれていくことになったんだよ。
続きはこちら「見えないなにかに苦しんだ日」
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