「受け入れる」は愛じゃない。

03.自己定義とビリーフ

私たちは、相手の思いや考えを
「そうだねー、私もだよ!」
そう言って、受け入れ、同感することがある。

「自分もそうですよ!一緒ですね!」
同感は強い同調を生むので、それが良いことであり、正しいことであるように思ってしまう。

そして、その強い同調が起こることによって、仲間意識が形成されて所属感が生まれる。所属感は安心感をもたらしてくれる。

そう、相手が持っているものを、自分の中にも見出す、そして同じだねと感じる所属感は、強く安心感をもたらすのだ。

成長のごく初期においては、自他の境界線がゆるく、また未熟で幼いため、自分で判断するという状況にない場合がある。
そういった場合に、外部の意見や意思を「そうなんだ」と、ストンと受け取ってインプットしてしまうことがある。

良し悪しには関係なく「受け入れて」しまうのだ。
あなたがそうなら、世界はそういうルールですね。という具合に。

「受け入れる」
それは人生の初期においては、生きるために必要な知識を入れることと同義であるのだけれど、成長していくに従って、自分はこう考える、こう思うという気持ちを自覚していく。

それは「私」という自我の目覚めとしては、とても重要な意味を持つのだけれど、いざそうなると「受け入れられない自分」は、悪だと捉えてしまうことがある。

それは、何かというと
「受け入れる」=同調する=愛
だと、カン違いしているせいなのだ。

「受け入れる」が出来ないと、私は仲間ではない、仲間を愛していない、と受け入れられない自分を責めてしまう。

でも、その同調によって作られる「安心感」や「所属感」、とても脆いものだと思うんだ。

だって、違っちゃいけないんだよ。
全くおんなじ経験をしてる人なんていないのに。
全くおんなじ人なんていないのに。

あなたとその人は違う人。
違う身体を持ち、違う思考、感覚を持っている。
同調できる部分もあるかもしれないけど、人はそもそも、違うように出来ている。

だから、無理して受け入れ、同調する必要はないんだよ。
ぜんぶ鵜呑みにすることが、愛じゃない。

いやだ、僕は違う。
それでも、あなたを認められる、それの方が「愛」に近くないかなぁ?

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