ひとの成長の過程とは

こころのこと
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前回の記事で、私は母とあまりに違う感覚を思っていたため、自分の感覚を信じないように、アテにしないようにしてきたという一節を書いた。

母親と感性も感覚も違い過ぎて、自分のセンサーの方が狂ってる、壊れてる、だからアテにしてはいけない、って思ってきた。

「やりたいこと」は、「わからない」よ。から。

しかしながら、人がこの物質界に生まれることに目的があるとするならば(※1)、この「分離を体験する」ということが、まずひとつの目的なんじゃなかろうかという説を、私は採用している。

母の体内で、温かく柔らかな羊水に包まれながら、へその緒を通して母から栄養や、感覚を受け取り、母という存在と混然一体とした所から一気に地上へ。

38度前後の温かな母の胎内から、分娩室のエアコンがいくら効いていたとしても25度前後、環境によってはもっと低いところに、苦痛と共に一気に放り出され、それまで胎盤を通してすべての必要なものが届けられていた環境から、自力で呼吸をし、自力で栄養を取り、自力で排せつをする。という必要に迫られる。

産む、生まれる、という一連の働きは、連綿と続いている生物の過程なので、それが当たり前と私たちは捉えているけれども、実際にその環境の変化は、とても苦しく、痛みを伴う、ショッキングな出来事なのだろうと想像できる。

でもそれが、第一段階の「分離」のプロセス。
まず、私たちは「個」という物質化を経験するためにこの苦痛を乗り越える必要がある。

そして、成長と共に、形を変えて何度も分離体験はやってくる。
母のお腹にいた時は、求めるものは勝手に与えられていたのに、生まれてくると泣き喚かないとお乳は与えられない。

暑いも寒いも痒いも痛いもお腹空いたもうんちもおしっこも、何もかもが不快感を伴って体中の感覚を襲うのだ。あらゆる感覚が「違和感」か「不快感」でしかない。でも、おしっこ出す時の感覚は気持ちが良かったな。

私は、この体験をセルフセラピーで経験したのだけど、ほんとうにただ生きているだけで沸き起こる色んな刺激が、違和感と不快感の塊みたいに感じられた。

それから、大体1歳から2歳ころには、母(養育者)という個体と、自分という個体は、違うイキモノなのだということを知る、という経験をする。特にイヤイヤ期っていうのは、自我の芽生えの顕在化と言われてるよ。

イヤイヤ期で分かるように、人は思い通りにならないのは苦痛なの。なんとかして自分の思うようにやりたいと願うものなのよ。

でも思い通りにならない事も多いのだというのを、この時期に学んでくる。そのため、この時期に心の傷をこしらえてしまうことも少なくないのです。

(なんでもダメと言われて諦めてしまった。なんでも母がやってしまって「自分でやる」をさせてもらえなかった。みたいなことで、自我を抑え込まれてしまうケースもあるし、この時に養育者との信頼を上手に築くことが出来ず、意識の根底に不安感を抱えて、臆病になってしまうケースなどなど。)

幼い頃の体験っていうのは、まぁ苦難と困難に満ち満ちている。そしてそれからも、成長の度合いに従って、自分とは何か他者とは何か、自分とは他者とはどうちがうのか、他者とはそもそもどういう存在か、自分と他者についての違いを学んでくる。それが、分離の体験です。

でも、「自分でやる」「自分の足で立つ」ということを体験しに来ているとしたならば、それが、やりたかったこと。

そして、「自分でやる」「自分の足で立つ」という分離の体験をきちんと体験できたならば、その次には再び「統合」という道が拓けてきます。

次の「統合」は、母との統合ではありません。
分離を体験してくる中で切り離してきた、ダメな自分、イヤな自分、傷ついた自分を取り戻していくという作業です。私の場合は感性・感覚・感情を取り戻していくという作業も大きかったです。それは、自分との再統合。
傷を癒す、という言い方で理解できる方もいらっしゃるかもしれません。

たくさんの分離を経験してきた私たちが、次に進む道は「統合」の道のりです。
ダメな自分、イヤな自分、を目をそらさずに見つめなければならない道のりなので、これまた苦痛が伴います。

でも2020年を目前に、転換期を迎えていると感じている方はぜひ「統合」を意識して頂くと良いと思います。

あなたは欠けている。あなたは足りない。ダメなところも持っている自分を、そのまま認め、あなたのままで許容していく必要があります。

よくカン違いされるのは、自己肯定感とは、出来る自分を増やすことではありません。できない事があったとしても、それでよしとすることです。

そしてダメでもOKとなったその視座を他者と共有し、欠けた、足りない、ダメな自分を、そっくりそのまま世界に提供していくことなのです。

分離の体験による「傷」に気がつくと、沼のようにそこに足を取られ、傷を見ることにばかり力を注いでしまうことがありますが、いつまでもその沼に安住しているのは、もったいない(いや、沼にいたいのだという方は居ていいのよ)。

あなたの人生は、分離を経験する、傷を癒すだけで終わる人生ではありません。
必ず、その次の世界を体験するためにいるのです。

分離を体験したからこそ、誰かと共に居ることに喜びを感じます。
分離を体験したからこそ、他者と協力し繋がることができます。
あなたのままで世界に開き、世界を受け入れていきましょう。

※1
この説は、主に精神世界の見解と、心理学的な見解があるけれども、人に生きる目的なんてないという説を信じている人もいるし、実際のところ正解なんてわからないんですよね。でも私個人的には、必ず必然であるならば、そこに何らかの意味はあるのだろうと思ってる感じです。

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