「えっ! またやったの?!」
フロアに響き渡る先輩の怒声に、その場に居合わせた全員が、まるで自分に言われたかのように縮み上がった。
また、やっちゃった。また怒られた。一言目で私はすでに涙目だった。定例報告の資料を作るたび、データに間違いがあると叱られてすでに3度目だった。
何度も確認したのに……
そんな言い訳、誰にも通じない。私がダメなんだ。どうしてミスしちゃうんだろう。
どうしてミスしちゃうんだろう、って、なんといっても作業がアナログなのだ。
サーバが吐き出すデータをかき集めて表計算ソフトにまとめ、条件に合う数値だけを抜き出して案件ごとにまとめ、それをいちいちコピペして報告書用のデータとして取りまとめて、必要な部分はグラフ化したり、より詳細なデータを作る。
ちょっと目を離すとどこまでやったかわからなくなるし、目が疲れて来ると数字が追えなくなるし、疲れが溜まってくると目が滑って、もうなんだかどうでも良くなってくるし、率直に言って、何の役に立っているのかわからない数字なのだ。
腹に据えかねた先輩が、上へ相談に行き、私も呼ばれた。
また怒られるんだ。もうこの仕事辞めてしまいたい。
本が好きで、憧れて入った編集部だったけど、やっているのは営業データや数字のことばかりだった。
課長は、この部にしては珍しい、元プログラマらしかった。IT推進のためと4月に異動してからまだ間もなかった。
物腰の柔らかさとは裏腹に、とても仕事に厳しい方だとの噂だった。
「話は聞いたよ、どういう手順でその作業をしているか教えてくれる?」
「サーバから落としてきたcsvのEの行から、この条件に合うものだけを抜き出して、別のデータシートを作ります、そして……」
私はすでに、処刑前の面持ちである。
「うん、待って。このデータだとソート難しいね、どうやってデータ抽出してるの?」
「目視です」
一瞬、間があった。
「目視で確認しコピペしています」
慌てて私は付け足した。
「うん、それは間違うね」
課長はあっさり言った。
「私は、こんなミスしませんでした!」
先輩が抗議した。
私の前には、先輩が同じ仕事をしていた。
この程度のこともできないの?そう何度も言われたからには、間違わなかったという自負があるのだろう。また、私は縮み上がった。
「そうだね、頑張ってくれていたんだね」
課長のその言葉を聞いた先輩の肩が、一瞬震えた。
「僕は、工学部出身だから身にしみていることがあってね。
それは”人は、間違う”っていうことだよ。
僕らは「間違ってはいけない」って、頑張るんだけど、機械の正確さと比べると「間違わない人はいない」ってくらい、人はミスするんだ。いや事実、間違えない人なんていないんだ。
人はね、必ず間違うんだよ。
だからまず「間違ってもいい」と、考え方を変えて欲しい。
間違うことを前提に、どうするとその間違いを見つけて、事前に修正できるか。
そして再発しないように仕組み化できるのか。という視点で仕事のやり方を見直してみて欲しい。」
「間違ってもいい」それは新しい考え方だった。
それから課長は、技術部の方と打ち合わせの場を設けて、一連の報告書作成のデータを一括でダウンロードできるようシステムの開発を依頼してくれた。
それによって、私が丸2日かけてなお怒られていた作業は2時間で終わり、改善案や指摘が的確だと、褒められるようになった。
それを皮切りに、社内一IT化が遅れていると言われていた、我が編集部の手作業すべてにメスが入った。
表向きには、システムによる作業の効率化が、課長のやったことだったけれども、一番この部署を変化させたのは
「人は、間違う」
という認識を、全員に浸透させたことだった。
これにより、今までひとりで完結させていた仕事も、必ず複数人で確認をすることにした。
複数人でひとつの業務を確認するため、全員で補い、助け合うという意識が生まれた。そして、より良くするために話し合いもよく行われるようになった。
ある日、私の報告書データを確認してくれた営業補佐の方が、
「全然、見て上げられなくてごめんな、俺も自分の仕事で手一杯でさ……」
つらい、しんどいと思っていたのは、どうやら私だけではなかったのだ。
そうして見渡してみて初めて、誰もがミスをしないために、かなりの労力と時間をかけていたことがわかった。
「人は間違う」
あのひとことが、部内の空気を一変させてしまったのだ。
間違いが許されないという環境から、間違いもOKと認識が変わってきたことで、新しい企画や戦略が生まれるようになった。
完全ではなくても、やってみようという、チャレンジを応援する空気になった。それぞれができることを持ち寄り、ひとつひとつの企画に、熱意を持って取り組んだ。
私は、怒られてばかりのダメダメ新人から、意見を聞かせてほしいと、新しい提案や企画の打ち合わせに呼ばれるまでになった。
はじめて数字と、自分の仕事に意味が見いだせるようになり、私は仕事が楽しいと思えるようになった。
一年も経つと私のいた部署は、企画編集部から、新しく立ち上げられたマーケティング企画部となった。
そんな矢先に、先輩が離婚をした。
結婚してまだ間もなかった。
「まぁ、人は間違いを犯すものですからねぇ!!」
テンション高くビールを煽る姿が痛々しかった。
先輩を応援する会に、遅れて顔を出してくれた課長が言った。
「本当の意味で、間違いなんてものは、ひとつもないんだよ。
間違いは、ただ教えてくれるだけなんだ。こっちじゃないよ、って他の道を教えてくれる、ただの道標なんだ。
でも、間違ったその道も、やっぱり通る意味があったってことに、後から気がつく日が来るからね。」
先輩の目から、はらはらと大きなしずくが落ちた。
人は間違う。
でも、その間違いは、本当は間違いではない。
良いも悪いも、正しいも間違っているも、
そんなもの、本来宇宙には、無いのかもしれない。
だとしたら、それを作っているのは、私達自身ってことなんだよね。正解なんて無いのだとしたら、私達は、なにをしたいだろうか。
どうやって生きたいだろうか?
正解も、間違いもないとしたら。
※このお話はフィクションです※