七色の花は裏庭に咲く

03.自己定義とビリーフ

「人は、どうして死ぬの?」
父や母が、どう答えてくれたかは記憶にないけれど、どうやら8歳の少女の恐怖を和らげてくれる回答ではなかったらしい。

なぜならその後十数年、8歳の少女が中年のオバサンになるまで、そのことについてうっすらと考え続けたからだ。

少女は、小学校2年生から「死」についてずっと考えていた。きっかけは、祖母の「死」だった。

なぜ、人は死ぬのだろう。
お母さんのお母さんが死ぬということは、お父さんやお母さんもいつか死ぬ日が来るということだ。その想像はとてもとても恐ろしかった。そんな日が来るのだけは、どうしても避けたかった。

8歳の少女にとって「死」は、自分の生きる術をなくすことでもあり、自分の世界が崩壊していくような恐ろしいことでもあった。

少女が10歳になった年、校庭の片隅にあった大樹が、老朽化で伐採されることとなった。
それは、校舎の裏側の小高い部分に、1本だけ残されていた古いポプラで、その遠くを見るような佇まい、きっちりと天に伸びる枝の一本一本も、サラサラと落ちる秋の枯葉も、少女は大好きだった。

切り倒される前日、少女はそのポプラに会いに行った。大人が腕を回しても届かないほど大きな樹なのに、ポプラの木の内側は、空洞だった。

死ぬ時は内側がなくなっちゃうんだな、少女はそう思いながら、ひっそりとお別れを告げた。

翌日の朝、この樹が100年も前からここにあること、このまま置いておくとこの樹が倒れる恐れがあることを、チェーンソウを抱えたおじさんが、教えてくれた。

「死」が、生き物の必然であること、それぞれの種によって「死」の訪れる時間は少しづつ差があること、そしてそのお別れは、どれもとても寂しいこと、などを10歳の少女は、ぼんやりと理解していった。

「死」を避けることは、どうやら出来ないらしい。
それは、わかった。物事の理として理解した。
しかし、それなのに、なぜ、みんな生きようとするのか。

「死」は避けようがない、どうせみんないつかは死ぬ、皆が知っていることなのにも関わらず、この地球上の生き物たちは、飽きもせず子どもを作り、飽きもせず死んでいく。なぜなのだ。

なんのために生きるのか。

最初は、ただただ「死」の恐怖に怯え、悲しむ子どもだった少女の興味は、徐々に「生」へと移っていった。

この世に生を受けたら、目的地は「死」しかないのだ。どうやったって逃れられないのだ。

では私達は一体、なんのために生きているのだ。
「死」しかゴールがないのに、なにを目的に生きているのだ。

ということは、生きるものには押し並べて「生きる理由」があるということなのではないか?おぉ、きっとそうだ、そうでなくては辻褄が合わぬ。死ぬまでにやる「目的」が、きっとあるのだ。

「そうか!」少女は雷に打たれた。

打たれたは良いが、少女には「少女の生きる目的」皆目検討がつかなかった。しかし少女はまだこの時12歳で、きっとこれから「私の生きる目的」がわかるのだ! と前向きに捉えていた。

14歳のとき、少女の生きる目的は「音楽」だった。音楽が聴ければ他になにも要らないと思っていた。

18歳になったとき、やりたいこととできることの間で、やりたいことを諦めた。

24歳になった頃、生きる目的どころか「生き延びること」それ自体が目的のような生活になった。

少しでも稼いで、少しでも楽しいことをするために、昼の仕事だけでは成り立たず、夜もアルバイトを掛け持ちした。それはそれで楽しく充実した毎日だった。

しかしその頃から、彼女に異変が起こるようになった。

町中を歩いていると、急激にめまいに襲われ立っていられなくなったり、疲れているのに朝方まで眠れない夜があった。勧められて病院に行っても、特に身体には問題がないと言われた。

28歳になった彼女は、アルバイトを辞め、昼の仕事を本業として生きていこうと決めた。もう彼女には「生きる目的」はなかった。

強いて言えば「生きる目的」は、ただ生き延びることだった。
そのためには、求められることに応えられる人でなくてはならなくて、そのためにはスキルが必要で、できることを増やし、人柄もよくなければならなかった。

ただ生きるために、社会に「適合」していった。

この社会適合作戦は、表面的には成功を収めた。
必要とされる人材になり、任される仕事も増え、認められることも多くなっていった。

しかし34歳になった彼女は、ずっと空虚だった。

なにをしても、どこへ行っても、彼女は満たされなかった。
仕事で褒められても、服を買っても、バッグを買っても、講座を受けても、旅をしても、趣味をみつけても……

カオナシの食べても食べても満たされない胃袋のように、なにをしても十分という気持ちにならなかった。

どれだけ、時間やお金もつぎ込んでも、あっという間に消えてしまう、終わりなき穴埋め作業のようだった。

エンドレス穴埋めにも疲れた頃、彼女はつぶやいた。
「私、このまま死んでいくの?」
きっと「生きる目的」が見つかっていたら、もっと充実して楽しく生きられたのに。

おかしいな、どうして私には「生きる目的」が見つからないんだろう?だって、みんなにあるはずなのに、私だけないなんておかしい……。

みんな、どうやって探しているの?
どうして私には「生きる目的」がみつけられないの?

12歳の時に、お別れしたポプラが目に浮かんだ。
大人が腕を回しても届かないほどの大きなポプラ、でもその内側は、なにもない虚だった。

内側は、なにもない虚だった。
内側は、なにもない虚だった。
まるで、今の私みたいだ。

「はっ」
再び彼女は、雷に打たれた。

私、間違ってたのかも。
ずっと、外側だと思ってた。
外を外を探して来た。

けど実は「内側」なのかも。
いや!内側なんだ!

そこから彼女は、内側の冒険を始めた。
「人はどうして生きるのか」
様々な解釈や、文学、哲学、心理学を学んだ。

そして私とは、何に喜び、何に悲しむのか。
私とは、どう社会と関わっていきたいのか、何を幸せと感じ、何を不幸と感じるのか。
自分という人間の、価値観や感性にひとつひとつ向き合い、丁寧に調べていった。

その年になるまで、自分が何に幸せを感じ、何を喜びを感じるのかさえ知らなかったことに愕然とした。それを知らずに、どこへ進もうとしていたのだろう。

身体が悲鳴を上げていても、無視をして、感覚にフタをして、しんどいことを感じないように、アルコールとカフェインでごまかしていた。自分に、なんてひどいことをしてきたのだろう。

その作業のひとつひとつは、無自覚ながら自分自身を痛めつけていた、自分の心の声を無視してきた事実を、否応なく彼女に見せつけた。

声を聴いていなかったのは、私だった。
自分自身の声を聞かずに「生きる目的」なんて、わかるはずがなかった。

そして彼女は、自分自身を知り、よく理解すると、本心に忠実に生きられることに気がついた。

そして、自分自身を知っていく作業は、まるで「死」について一生懸命に考え抜いた日々のように充実していて、それは純粋に楽しいことだった。

本心に従い、楽しく充実して過ごせることは、とても安心した毎日であることもわかった。
外側に、あれもこれもと満たしてくれるものを探さなくても、満ち足りて生活できることに、いつしか気がついていったのだ。

あの大樹が教えてくれた、内側を知ること、内側を感じることは、その後、カウンセラーとして生きるようになった私の心の支えとなった。

エンドレス穴埋め作業では、埋まらない心の穴に気がついたら、その穴がなんなのか、興味を持って観察してみて欲しい。

「あなたの生きる目的は、必ずあなたの内側に眠っている。」
私の生きる目的は、これを必要な方へ届けること。
どうやって探していいかわからない方を、サポートしていくこと。

七色の花は、遠い外国ではなくて、内側にひっそりと咲いているから。

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