じゃあ、信じてみた「龍」に会いに行こう!!
「なんとなく」を選択したときに開けた道。
あの時の行動が、発言が、後になって大きな意味を持っていることに気がつく。そんなことが、誰にもあるのだろうと思う。
その時は、意味のない一歩であったり、何気ないひとことであったり、なんなら言い間違いであったりも、するのかもしれない。
でも、それが後になってナニカを形作っていることに気がつくのかも、なんて思ったりする。
子どもの頃に遊んだ、点と点を結んでいくと、ネコちゃんやゾウさんが描けたような、あんな遊びが、案外人生なのかもなぁ、なんて思ったりするんだよ。
私の場合、最初の点は「不思議だな」だった。
特に意味はなかったんだよね(なんとなくに従ってみるチャレンジ中)。
龍神様を巡る旅を決めてはみたけれども、さてどこへ行こう。
そして、私は龍という存在について何も知らないことに気がついた。
カッコいいよね。ほんとにいるのかな?
私にとっては、日本昔話のアニメが一番古い記憶で、神社の手を洗うところでゲロゲロ水吐いてたり、お寺の天井で睨みを利かせている。よく目にしている。珍しくもない。けど、よく知らない。よくこんな不思議なもの、当たり前のようにいままでスルーしてきたよね。
そうして、改めて自分の部屋を見渡せば、案外龍が描かれたものがある。
タイで購入した壺、ブータン国旗の柄のマグネット、両親の写真の背景は台湾の龍山寺、探せばもっと出てきそう。国をまたいでこれほど崇められているのか、それも不思議。
よく知らないけれども、なんでいろんな国にいて、そんな想像上のイキモノを、どの国の人も大事に奉って、祈るのか。ただ、ただ、不思議だった。そんなん見えないし、いるのかだってわからないのに。
そして、私は調べまくったのだ。龍を。
何をもって龍だと捉えている人がいるのか。
「気」だという人がいる「流れ」だという人がいる。
わからない。でも知りたい。
この時はまだ知らないけれど「不思議だな、わからないな。」と思うことは、私にとっての羅針盤だった。
わからないってことは、知りたいってこと。知りたいってことは、興味があるってことだった。
私にとって「わからない」は、エンジンだ。
そして、なにより私は、行動の指針を変えたかった。
「役に立つ」「便利」「評価が高い」
の行動指針ではなく、
「役に立たない」「便利でない」「評価されない」
それでも、行ってみたい、ということをやってみたい。
役に立たないことの先にしか、もう新しい自分は出てこないような気がしていた。
それほど、「役に立つ」の呪縛は硬いってことなんだろうね。
もうこれは、顕在意識でビリーフをカチカチと砕いていくしかなかったよ。
龍。うってつけ。
龍神様に会いに行ってくる旅。
無意味。
そして楽しそう。
おぉ、無意味なことって楽しそう。
思考回しちゃう人は、何も決めない旅をしてみるといいのかもね。
そんなことをグダグダと考えていた時、テレビに善光寺が映った。
青空に映える黒々した寺。
長野って行ったことない…
そんなわけで、私はふと善光寺に行ってみようと思った。
桜は終わっているけど「春の信州」は、とても魅力的だった。
善光寺の近くには戸隠神社がある。
行ってみたい。
でもなぜかこの時、私は戸隠神社に行きたいと、なぜか思えていなかった。
夫に善光寺に行ってみようよ、と伝えてみる。
車を借りて行こうか。と快く賛同してもらえた。
「近くに戸隠神社さんがあるの、そこにも行ってみたい。」
なぜか、そのひとことが言えないまま、長野へ出発した。
行けなくても、いい。ひとことも発しないうちから、諦めていた。
またひとつ自分の無意識のパターンが見えていた。
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