「なんとなく」を選択したときに開けた道。

私の見えない世界の旅

2016年という年は、私にとって忘れられない年でした。

わかっていたはずの自分のことが、全くわからなくなり、やることなすこと上手くいかず、やろうとしては叩き落され、やろうとしては潰されて、どうにもこうにも、今までのやり方では通用しないぞ、させないぞ。という無言ながらも強い運命の意図というのを感じていました。

ことごとく、いままでの自分の価値観が焼け落ち、焦土と化し、アイデンティティというものが一旦まっさらになったような。そんな年でした。それは例え、自分を再構築していくために必要な儀式であったと後からわかっても、しんどい時期ではありました(実は、この後もっとつらくなるのだけど)。

好きなことは出来なくなり、仕事も探せない、やりたいことなど何ひとつない。でも、気持ちは働かなくてはいけないような、このままではいけないような気がしていた。
日々、なんとなくカフェで時間を過ごしたりしているけれど、このままでいいのかなぁ…と思いながらも、どうしていいかわからない、そんなループから抜け出せないでいたのです。

その頃から私は、ある実験を始めました。
「思考」で選ぶ、ではなく「カン」で選ぶ、という実験を。

例えば、「役に立ちそうだから」、「有利だから」、を理由にするのではなく、「きれいだから」、「なんとなく」みたいな、やんわりといい加減で、いままで理由としては認めてこなかったような理由で選んでみる、という実験です。

いざやってみると、これがなかなかハードルが高かった。恐れの感情が出てくるのだ。
なぜ恐れるのか、と内観していくと、「失敗したくない」という気持ちが出てくる。
それは後悔の気持ちを味わいたくない、というエゴなんだけど。

この場合の失敗とは「つまらない本買っちゃったな。」「お金無駄にしたな。」と思いたくない、ということだった。

うん、ちいせぇ。
ちいせぇこと言ってるわ、自分。
本当に、私っていうのは「失敗」を恐れている。

クソみたいだな、アリよりちいせぇわ。つか、アリに失礼だわ。ちいせぇこと言ってねーで、とっととやれやクソ野郎。
と、一通り自分に罵声を浴びせてから(このときまだ自己否定強かった)。

「って、思ってるわな~、自分!!」
って叫ぶ。これも練習。

解説しよう。
思考の声がグルグルし始めたら、止めよう!と思って止められるなら止めてね。
それが出来無かったら、一通り思考にごちゃごちゃ言わせる時間を許して上げてから、 「って、思ってるわな~、自分!!」 って叫ぶ。

これな、思考と距離を取る練習。
「それ、事実やないで!!って思ってるだけやで!!」
って、声に出すこと。できるだけデカい声で。
声に出すのって大事よ、思考リセットするのに大事だから。

しかしながら、もう今までのセオリーを脱出しないと、このループから抜けられない。いままでのセオリー=思考から脱却しなければ、この先のステージに上がれないのだ。
「役に立つ」「便利」「評価が高い」これ以外の選択肢で選ぶ必要があった。

感性がポンコツの私にとって「思考」の以外の選択肢は難題だったけど、「美」という選択肢を選んでみようと思ったの。

そうして出会ったのが、 「龍使い」になれる本。という大杉日香理さんの書籍。
淡いレインボーの美しい龍に少女が乗る表紙。軽やかで繊細で、龍というともっと力強い印象があったので、なんとなく不思議な気がした。

読んでみると、「龍と仲良くなる」とは書いてはあるけど、覚悟を決め、自分で歩を進め、インスピレーションを受け取る、という練習の方法が書いてあります。内容としては、自己啓発の本と同じで、特に違和感は感じない。というかむしろ、自己啓発ってこっち寄りなんだな…という感じ。

7つの習慣」とか「思考は現実化する」とか「原因と結果の法則」とか。
古典と言われるような自己啓発の書籍と、 根底に流れているものは同じなんだなと。
結果からいうと、自分の内側を良く見つめて、目標に集中して行動しろ、と。

龍であれ、神様であれ、なんらかの存在がいたとしても、見えないその存在たちは、私が行動を起こしていかない限り、何かをしてくれるわけではない。私が幸せに人生を過ごすためには、私が決めて、私が行動して、生きていくほかはないんだな、という単純な気づきがありました。

ただ、ひとつ。
龍でも神様でもいいんですが、好きな人は天使でも妖精でもいいのでしょう。
自分以外に自分を応援してくれる存在があるならば、とても嬉しいな、と感じたのです。

家族、友達も、当然ながら応援してくれているのかもしれないのです。
でも関わりが深い、身近な人というのは、純粋な思いやりの上に、様々な感情が乗っていることも確かです。それが良し悪しではなくてね。相手に対する期待や希望、要求。みたいなものが、どうしてもうっすらと。それは、自分も同じです、仕方のないことです。

自分自身ですら、自分のことをちゃんと応援してあげられていない。
どうして、こんなのが出来ないんだ!みんなは出来るのに何でお前は出来ないんだ!
そう言って、自分のことを責めたことの無い者だけが、相手に石を投げなさい。
うん、そうだよ。自分のこと、自分で応援して信じてあげようねー。

とは言え、私は相手のそれがわかってしまうことが多く、幼い頃から相手のそれを忖度しながら自分の方向を探してしまうことで、自分の好きなことや、やりたいことがわからなくなってしまっていました。これも、二の轍を踏んでしまっては同じ道です。先に進めません。

でも、龍ならば私が差し出すことができるものは、限られています。
感謝と、愛。たまにお酒と卵くらいでしょうか?
私から差し出さずに応援してくれる存在。それは心から嬉しい、と思えました。

いや、どんだけ「無条件の愛」に飢えていたのか、という感じ。

あぁ、そうか。
「無条件の愛」を信じてみようか。
龍というその存在を、自分の中で「居ること」にしてみようか。

ある、と信じられるのなら「ある」のです。
例え、実体がなくても、見えなくても、根拠がなくても。
心の中に、そのための場所が出来るということです。

私は「龍が居る」「無条件に私の幸せを願ってくれる存在がある。」
と、信じてみることにしました。それはとても「肚」の鍛錬になる考えでした。
だって、全然信じられてませんから、油断するとその信念はプカッと身体から離れてしまいます。

何度も何度も「くだらない」「アホみたい」「どうしょもない」と、思考は繰り返します。
浮かび上がったそれを、何度も何度 つかんでは「いいの、やってみたいんだんから。」「実験、実験。」と、身体に戻します。

(この表現って伝わるかしら、なんだか信じられない考えって、ぽっかり宙に浮いてる感覚があるんだよね。信じられるとストンとお腹に入る。いわゆる腹に落ちるってやつ。)

その本の終わりの方に、龍神様を祀る神社の一覧がありました。
「あ、ここに行ってみよう。」

せっかく仕事をやめて、自由な時間が沢山あるのです。
せっかく無条件の愛の存在を信じてみようと思ったのです。
地球という星は「行動」の星なんだそうです。

じゃあ、信じてみた「龍」に会いに行こう!!

ここから、私の「龍神様を巡る旅」が始まったのでした。

コメント

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