本当に欲しいものが、欲しいって言えない。

神社・日本の神さま

「近くに戸隠神社さんがあるの、そこにも行ってみたい。」
なぜか、そのひとことが言えないまま、長野へ出発した。
行けなくても、いい。
ひとことも発しないうちから、諦めていた。

もうね、このパターン大昔からやりすぎてて自覚がないくらい。
「本当に欲しいもの」を言葉にすることが出来ない。欲しいって伝えられない。そんなパターンというか、ビリーフを私は持っていた。

「欲しい」と思うことすら、すっかり諦めてしまった。
諦めきっているので、そもそも欲しいという気持ちがない、わからない。
もしかしたら、わからないことにして諦めているのかもしれない。

わからないことにしているから、欲しいもの、やりたいことが見つけられなくなっているのかもしれなかった。
聞こえない聞こえないと、聞こえないふりをしていたら、いつの間にか本当に聞こえなくなっていた、みたいに。

20代の半ばころ、そのパターンを持っていることに気がついたことがあって、私はそれを顕在意識で打ち壊したことがある(と、はっきり覚えているくらいチャレンジングだったわけ)。

打ち壊して、すっかり自分は「欲しい」が言える人になった、と思っていたのに、またあの諦めに囚われてしまっている。

あー、まだこのパターンやるのかよー。
と分かっているのに、やっぱり言えなかった。
わかっちゃいるけどやめられない、とはよく言ったものだよ。

言ってしまったら、どうなるの?
どうにもならないね、サイアク行けないだけ。
そうなんだよ、最悪行けないくらいなもんなんだ。でも言えない。

だって、心の奥底では
「本当に欲しいものは、与えてもらえない。手に入らない。」って思ってるんだもん。
その傷を、もう一度見てしまうのが恐ろしくて、やっぱり欲しいって言えない。
顕在意識で打ち壊しても、まだ残ってるんだねぇ。あの頃の自分にビリーフ・リセット教えてあげたいわ。

善光寺を訪れ、桜のまだ残る臥竜公園を訪れ、日本で最も美しい村の高山村へ。
翌朝は、朝もやのなか沿道の桜を眺めつつ、さて、どうしようかと。

不思議なことにね、美しい渓谷と、温泉と、美味しい料理で、すっかりリラックスしていた私は、スルッと「戸隠神社さんへいってみたい。」と言っていた。

あ、言っちゃった…。
口からぽろっと出しちゃった自分に、少しびっくりして、少しドキドキしてた。

そうだね行ってみようか。
夫は、いたって普通にナビで行先を探し始めた。
あんまりスルッと欲しいをOKされたので、私はフリーズしていた。

少し経つと、ちょっと現実味を帯びてきた。
行けるんだ。私、戸隠神社さん行けるんだ。
そりゃあんた、行こうって言わないと行けないよねぇ、とツッコむもう一人の自分もいる。

しかも、神社に行くのに、なんでそこまでグルグルと考えてるのだろう。
おかしいな、私。何をそんなに怖がっているんだろう……

山道を切り拓いた「七曲り」と呼ばれる急こう配を上り、しばらく行くと「戸隠そば」の看板が見えてくる。宝光社さまを曲がると、日本昔話のような里山の景色が広がっていた。

柔らかい光に照らされたあぜ道の野の花々、かやぶき屋根、高い山の樹々に囲まれるように人が集まって暮らしている。
里山の風景を、北海道育ちの私は知らない。きっと、一生忘れられない美しい景色だった。

そこからまた、曲がりくねった坂を上ると、戸隠神社さまの中社が見えてくる。先ほどの場所よりいくぶん寒く、まだこちらは、道端に雪が残っている。

駐車場に車を止めると、参拝を終えた外国の観光客が小走りで車に戻ろうとしていた。
4月も中旬だというのに、寒かったし、なんならみぞれが降っていたし、風もごうごうと吹いていた。

怖かった、めっちゃ怖かった。
普通に飛ばされそう。
手水もやたらと冷たかった。
ありがたみというよりは、どうも来るなって言われているような気がする。

みぞれの向かい風を進んでいくと、山を背にした中社さまがあった。
そして、前に立つと、来るときに気がつかなかった杉のご神木があって、その下に階段が伸びていた。こっちから来ないといけないんでは。

ごうごうと風が吹いているので、戸口にビニールの覆いが掛けられている、その細い隙間からお賽銭をいれ、ご挨拶をした。

お辞儀をして目を上げると、夫もちょうど目を上げたところだった。
そこに、びゅうと風が吹いて、中を隠していた布を持ち上げてくれた。
引き込まれたように見上げると、天井の龍と目が合った。

「よく来たね。」
あれ、歓迎されてた。
あんぐりと口を開けたまま、しばし龍に見入っていた。

「ここに来たいって、言えました。ありがとうございます。」
寒くてブルブル震えていたのに、お参りを終えるとふんわりと温かかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました